※今回のブログでは震災遺構の写真があります。
ぼんちゃんやオーナーの杉浦さんに別れを告げ、気仙沼のSLOW HOUSEを出発。そこから石巻市までの震災遺構を見て回りました。感じたことを記録しておきたいと思います。
食堂での出会い
今日はまず北の陸前高田市によってから南へ進む予定。だったが、雨で断念。気仙沼からそのまま海沿いの国道45号線を通り、南へ進むことにした。
11:00 早速腹が減ったので近くの食堂へ。大きなとんかつの定食をいただく。
レジで「おいしかったです!」と伝えた。店を出て自転車に乗ろうとしたとき、店員さんに話しかけられた。
「日本一周ですか?」
はい!
お仕事中にもかかわらず、旅の話をたくさん聞いてくださった。
「これ持っていき!」
おばちゃんはドリンクを差し入れしてくれた。
「またおいでね!」
ありがとうございます!
この方あとから電話もくれました。ほんとありがたい限りです^^
気仙沼市の震災遺構・伝承館
※ここからは震災遺構の写真が続きます。
東北は一番自転車でゆっくり回りたいと思っていた地域だ。このあたりの地域に来たのは実は4度目。一度目は震災から1年後の東松島、二度目はその半年後に陸前高田、三度目は2018年だ。年々少しずつだが復興は進み、震災の記憶を伝えていこうとする施設も増えてきている。
12:30 気仙沼市の東日本大震災遺構・伝承館に来た。ここは旧気仙沼向洋高校跡地に建設されている。現在の館長は向洋高校で長年勤めていた方である。
旧南校舎は1階から屋上まで、旧北校舎は1階のみ見学が可能。震災遺構の旧校舎は撮影可となっている。
津波で流されてきた車があるのは3階。
こちらは4階。津波はこの階まで到達した。海の近くにあった冷凍工場が外壁に当たり崩れている。
外からも見てみる。先ほどの4階の外壁が壊れているのがわかる。屋上に避難していた人もいたため、流れてきた冷凍工場が正面からぶつからなかったのが幸いであった。
校舎の間に折り重なった車。
当時この学校にいたのは教職員や生徒、工事関係者など約250人。13mの津波に襲われたが、迅速な避難誘導により奇跡的に誰一人命を落とすことはなかった。
たくさん感じることはありましたが、自分からは一つだけ。展示室で見た映像のことです。避難所になっていた気仙沼市立階上中学校の体育館で震災後すぐに行われた卒業式。避難者が見つめる中で一人の生徒が答辞を読みます。YouTubeにもありますが、見ていて涙があふれました。言葉に力がありました。
震災遺構を残すことには賛否ありますし、後世の為とはいえ、つらい経験を伝えていくのはそう簡単にはできません。自分自身もただ「知りたい」という気持ちだけで来てよかったのか考えます。動画を見て関心がわく人、遺構を直接見て何か感じる人、人から話を聞いて心が動く人、さまざまです。大切なのは選択できるということかなと思います。後世に必要なことを残していくのはやはり必要です。心の余裕に応じて、その残し方が選べるというのがいいと思いました。
南三陸町へ
引き続き海沿いの国道を通っていく。国道に沿って走るのはBRT(バス高速輸送システム)の道路。かつて線路があったが、今はそこをバスが走る。BRTのことについては前回の投稿で。
15:00 国道沿いの堤防で休憩する。走っていると同じ堤防でも作り方にはいろいろあることがわかる。
これは非常に大きな堤防だ。川の幅は決して広くはないのに対し、堤防はかなりの幅と高さがある。
東日本大震災の津波は人の想像をはるかに超えるものだった。「これくらいあれば」と思って建てられた堤防の上を波が襲ってきたのだ。
こちらの堤防は10m以上はあるだろうか。内側に走る国道もかさ上げされているが、暮らしを守るためには最低でもこの高さが必要なのかもしれない。しかし、安心と引き換えに海は人からずいぶん遠くなってしまった気がする。
18:30 南三陸町に到着。ここは南三陸町のBRT志津川駅近くにあるさんさん商店街。
震災から約1年後に仮設でオープンしたさんさん商店街は2017年に今の規模で本設された。8m以上かさ上げされた土地に建てられている。28の店が軒を連ねるにぎやかな場所だ。ただ今日はもう閉まっている店がほとんど。
海鮮丼食べたかった…。実はこの店の海鮮丼、今までに食べたものの中でもトップレベルにおいしかった。2018年に食べた時の写真がこちら↓
どうですかこの豪華さ。また次回リベンジですね。
南三陸町の震災遺構
さんさん商店街の店舗の間から川の方を見ると、大きな堤防の向こうに震災遺構と祈念公園が見える。
こちらは同じ場所で2018年に撮影した写真。まだ堤防や公園は整備の途中であった。奥に見える鉄筋コンクリートの建物は南三陸旧防災対策庁舎。
このきれいな橋を渡ると対岸へ行くことができる。
こちらが南三陸町の震災復興祈念公園。丘の上には犠牲になった方の名簿を安置する石碑がある。
旧防災庁舎の前に来た。建物は太い鉄筋の骨組みだけを残すのみである。この庁舎は一度は解体の決定がされたものの、2031年までは県が管理する形で保存が決まっている。
2階には当時危機管理課があり、防災無線で避難の呼びかけが行われていた。呼びかけは津波の襲来の直前まで行われた。発生当初予想された津波の高さは6m。だが実際に襲来した津波の高さは15.5mだった。この建物の高さは12m。53名の職員が屋上に避難したが、助かったのはアンテナにつかまっていた10名のみだった。
防災無線で最後まで町民に避難を呼びかけていたのは24歳の女性職員だ。無線の最後は、呼びかけを遮るように「上へ上がって」という声で終わる。彼女は津波にのまれ、帰らぬ人となった。
彼女の両親は震災から3年後、気仙沼で民宿を開かれたそうです。民宿の名前には娘さんの名前が使われています。
「亡くなった人の分まで」という言葉を聞いたことがありますが、自分の場合はまったくそう思えません。一人分を生きることで精いっぱいです。ただその人たちの生きた歴史を忘れず、与えられた自分の人生を精いっぱい生きよう。震災遺構を見てそう思いました。
石巻市までのルート
21:30 今日は最終的に石巻市までこいだ。
2022年8月25日【104日目】
気仙沼市→石巻市
走行距離 100.3km
積算距離 6,062.2㎞
最後まで読んでくださりありがとうございました。震災について文章で伝えるのはなかなか難しいなと感じました。人によってはきつい内容になるかもしれませんし、自分の伝え方、言葉選びが間違っていることもあるかもしれません。心の余裕の範囲で見てもらえたらと思います。