こんにちは!ともやです。
今回は私が30歳で仕事を辞め、自転車日本一周の旅に出ることになった背景について書いていきたいと思います。そんなん誰が興味あるねん!て感じですが…(笑)旅の出発日につながるストーリーがいろいろとありますので、少し長くなります。
自分の経験が誰か一人にでもお役に立てば!
時間は大学時代にさかのぼります。
大学時代
大学は自宅から近くの教育系大学に入りました。
絶対に先生になってやる!
そんな勢いで入ったわけではありません。なんとなく興味があり第一志望でしたが、高3の受験ではその大学どころか、滑り止めの大学、さらにその滑り止めの大学とことごとく落ち、どこにも受かりませんでした。いくつも受験料を重ねたせいで親には負担をかけたと思います。それから1年予備校に通い、なんとか入ることができました。
大学での講義は結構おもしろいものが多くて、「子どもが主体的に学ぶにはどんな授業がよいか」を考える内容が多かったです。大きな講義室で大勢で参加するのは「The大学」という感じ。
これから憧れていたキャンパスライフが始まるんやなあ。
なんて考えたり。ところが現実はそううまくはいきません。苦労したのは‟人間関係”でした。
サークルは一番熱心に誘ってくれたラクロスサークルに入るんですが、なかなかチームの輪の中に入れず、1年でやめてしまいました。学部内ではどうかというと、放課後や休みの日に遊びに行ける友だちを作るのにとても苦労しました。
人と壁を作ってしまうというか、この人とは合わないと決めつけていた気がします。
大学が自宅から近かったのはありますが、行き帰りはもちろん一人ですし、周りの子たちがサークル活動に励む中、講義が終わればすぐに家に帰るという日々が続きました。
手にとったパンフレット
2回生の夏休みの直前、バイト先の塾の夏期講習の合間に6日ほど休みができました。どこか旅行にでも行こうかと大学生協に立ち寄ってパンフレットを眺めていると、気になったものが一つ…。表紙には「カンボジアスタディツアー」とあります。
カンボジア…?聞いたことはあるけどどこやねん。
パンフレットを開いてみました。孤児院を訪問したり観光したりできるツアーのようです。
海外かあ…。しかもカンボジア…。
このときは海外旅行の経験がほとんどなく、知らない世界に飛び込むことに不安しか感じない自分がいました。
まあとりあえず国内で。
パンフレットを置こうとして一応ツアーの日程を確認しました。すると…
え?ちょうどや。
自分の休日とまったく同じ日程でした。ほかのパンフレットも見てみますが、どれも1日や2日違いで行けないものばかり。
とりあえず持って帰ろう。
一晩考えてみることにしました。
衝撃を受けた旅
熟考した結果、そのツアーに行ってみることにしました。
現地のシェムリアップという町の空港でガイドの方、各地から集まるメンバーと待ち合わせをしました。メンバーと遺跡をめぐったり、夜の街を観光したり、海外初心者の自分でも楽しい毎日でした。
孤児院では親がいないたくさんの子どもたちと出会いました。折り紙や日本語を教えたり、現地の歌をうたってくれたり、笑顔いっぱいの子どもたちとたくさん遊びました。しかし子どもの中には時折曇った表情を見せる子もいました。カンボジアの歴史については割愛しますが、子どもたち含め悲惨な運命をたどってきた方がこの国にはたくさんいることが実感できました。
メンバーの中にはいろんな国を旅されてきた方、ご家族で参加されている方、小学校の先生など多様な価値観を持っている方がいて、毎日おもしろい話ばかり聞かせていただきました。
勇気出して来てみてよかったな。
ほかの国の人はどんな生活してるんやろう。
たった6日間でしたが、最終日何か自分の中でふつふつと動く感情がありました。
大病
これも大学2回生のとき。首にポコッとしたしこりがあることに気がつき、病院へ行きました。調べてみると甲状腺というところに腫瘍が見つかり、数日間入院をして、手術で甲状腺の片方を切除することになりました。突然のことで動揺したのですが、その時は「ただとるだけだ。」と軽い気持ちで考えていました。ところが切除した腫瘍を検査すると甲状腺がんだったことがわかりました。
切除した日。首からチューブが出ていて寝返りが打てず、まったく寝られなかったのをよく覚えています。
こんな自分でもがんになるんや。転移していたらどうしよう。
まだやりたいこといっぱいあるのになあ。
なんとも言えない恐怖感でした。
幸い甲状腺がんというのは、がんの中でも進行が遅いらしく、その後の検査でも転移は見つかっていません。普段はまったく死というものは意識しませんが、この時ばかりは、少し考えたりもしたかなあ。
自転車の世界
大学時代には結局4か国、カンボジア、フィリピン、台湾、韓国と訪問しました。どの国も刺激的でしたが同時にこうも思いました。
日本のこと全然知らんなあ。
海外へ行くと日本のことを聞かれることがあります。「外国人のほうがよく知っている」なんてことをみなさんも感じたことあるんじゃないでしょうか。そう思いつつレールに乗って私は教育の道へと進んでいきます。
3回生の時、就職に有利と聞いてセミナーを受講することにしました。10数回あるセミナーを受講すれば教員採用試験の一次試験が免除になるというものでした。大阪中から教員をめざす方が集まり、毎回講義を受けたり、グループトークをしたり、模擬授業をしたり、かなり熱の入った内容でした。
同じような志を持つメンバー。
ところが自分はそのメンバーの輪の中にも、なかなか入ることができませんでした。
ある日のセミナーの昼食の時、弁当の用意をして周りを見渡すと、すでにたくさんのグループができていたので一人で食べることにしました。大学でも一人で昼食を食べることには慣れていたので、気にせず食べていると、ある子が「なんで一人で食べてんの?こっちきいや。」と言ってくれました。「あ、うん。」と答えたものの、そうして誘われている自分を見る周りの目が気になります。
わあ、恥ずかしい。誘わんでええのに。
当時の自分はそんなふうに思ってしまいました。今思えばすてきなメンバーが集まっていたように思うんですが、誘われた飲み会にも行かず、自分の世界にこもっていたなあと感じます。
セミナーの中で何度かゲストの方の公演を聞く機会がありました。ほとんどは教育について専門知識のある方が語るのをひたすら聞く講義形式で、正直あまりおもしろくはなかったです。しかし唯一おもしろかった回がありました。それは坂本達さんという方の旅のお話でした。
坂本さんはミキハウスに所属し、4年3か月もの有給休暇をもらいながら自転車で世界一周を成し遂げたすごい方でした。当時の私はスポーツバイクでサイクリングしたり、ママチャリで遠出したりすることはあったんですが、荷物を積んで長期の旅に、しかも世界に出られるなんて衝撃的でした。せまかった自分の世界がぱあっと広がるような。各国で出会った方のお話やトラブルのお話、どれも刺激的で目を見開いて最後まで全集中で聞きました。
すごいなあ。自分もあんな壮大な旅してみたいな。
自転車なら大学生の身分でもお金をかけずに旅できるかも。
その日はなんか寝るまで頭の中がふわふわしていました。
とは言いつつ…
そんなことを考えつつ、結局はできない理由ばかりを並べてしまいます。
バイトやめらへんしなあ…。
自転車旅でも多少お金は必要やんなあ…。
浪人やから早く就職しないと周りに置いて行かれるなあ。
そしてあっという間に大学は終了。就職の日を迎えました。就職先は大阪府下の小学校。就職活動なんてことは一切経験せず、幸運にも社会人になることができました。
仕事自体は楽しくて、特に子どもとかかわる時間は一瞬一瞬が貴重で、毎日成長していく姿に感動しました。もちろんたくさん失敗もしました。3年目くらいまでは日々をこなすのが精いっぱいで、子どもたちやおうちの方にはたくさん迷惑をかけました。日が変わるまで働いたこともありました。
「先生大丈夫?」
朝一番子どもにそんな一言をかけさせてしまった日がありました。今考えればきっと余裕のない表情をしていたんだろうと思います。多くの同僚の助けもあってなんとか5年目を迎えたある日の帰り道。自転車に乗りながらふと思いました。
このままでええんかな。
たしかに世の中的には安定と言われる職業で、毎年いろんな子どもに出会えて、自分の力を生かせるお仕事。でも何か心にひっかかりが…。
いつか…
頭の中に浮かんだのは、学生の時に思っていた自転車旅のこと。
もし何か月も旅をすることになったら仕事を辞めないといけないのかな。
いや休職という手段もあるのか。でも今持っている仕事は誰がするんや。
頭の中がこんがらがえりました。5年目だったのでクラス担任だけではなく、学校全体にかかわる大きな仕事も担当していました。
教員の世界というのは当時の自分から見ても独特なものがありました。遅くまで働いている人が「すごいなあ、がんばってるなあ。」と言われ、6時ごろに仕事を終えて帰ろうとすると「もう帰るん?」と声をかけられたこともありました。いくらがんばっても評価の高い教員が学校にいる限りは、自分の評価が上がることはありませんでした。「まあ、○○くんはまだ5年目だから。」
毎年体調をくずす時期がありました。9月の運動会の時期です。4年目から6年目は体育部の主任として運動会を取り仕切りました。職場において責任ある仕事をいただけるというのは、とてもありがたいことです。みんながもらえる仕事ではありません。ですが「がんばらないと」と自分を追い込んでもいました。
うーん。とりあえず今年は頑張らないと。また負担が軽くなったら考えよう。
いつか、いつか…。
7年目は新しい学校で迎えました。慣れない環境での日々は正直つらかったです。その学校は力のある教員が集まった学校で、周りはすばらしい先生ばかりでした。
ついていけるかな?
期待とプレッシャーがのしかかる毎日でした。
新しい学校では、久しぶりに重要なポジションからは外れて学級作りに力を注ぐことができました。新しい子どもとの出会いはどの年でもわくわくします。子どもたちは本当にかわいくて、出会うたび、別れるたびに「ああ先生やっててよかったな。」と心から思いました。
公立校なので、いろんな子が一つの教室で学びます。外国にルーツのある子、発達障害のある子、学習が難しい子、学力がとても高い子。一人ひとりのニーズが違っていて、この子にはどんな声かけがいいか、どんな学習の仕方がいいか考える日々が続きました。
自分は一人ひとりの悩みに心から寄り添えているだろうか…。
家庭訪問や懇談会ではおうちの方の話を聞きます。話を聞くたびに思うのは今子どもが育っている環境というのは本当に千差万別であることです。大学から一般的な社会を知らずにそのまま教員になった自分にとっては、わかっているようでわからない、そんな感覚がありました。
教員を続ければ続けるほど価値観が狭まっていくような…。イメージ的には、人それぞれ形や大きさが異なる価値観のお皿を持っているとして、自分の今のお皿にはどうしてもつめられない。新しいお皿、もしくはお皿の形が変わるような経験が必要な気が…。
気づけば30歳
こう思った人は自分だけではないでしょう。20代のうちにいったい自分は何ができただろうか。心から本当にやりたいことができただろうか。周囲に流されて生きてきただけではないか。
20代として、社会人として、男として…。
常に「こうあるべき」という箱に自分を押し込めてはいなかったか。
小学校教員として7年目の12月。管理職との面談の日がやってきました。来年度への影響を考えるとこの日がリミットでした。
「今年でやめます。」
さすがに唇が震えました。
3学期が終わり退職日を迎えます。同僚には海外で挑戦してみたいと伝えました。もちろん海外に興味はありましたが、何一つ先のことは決まっていませんでしたし、当時の自分には「自転車旅をしたい」なんて口が裂けても言えませんでした。
4月1日
無事ニートになった記念日。解放感とともにとてつもない不安感が訪れました。月曜日に目を覚ましても仕事に行くことはない。でも当然今月から給料もないわけです。4月の初めは緊張の糸が突然切れたかのようにだらだら生活してしまいました。
やめる少し前、自転車旅と同じくらい興味があった語学留学の予定を先に決めていました。出発の日程は9月。それまで約半年間の時間があります。
さあ動くぞ!
感覚としては学生時代にカンボジア行きを決めたときと似ています。「自分ならできる」なんとかそう言い聞かせました。
9月までの半年間自転車旅に出てみよう。
日本のことをもっと知りたい!
自分の価値観を広げたい!
理由なんてそんなところです。
3年間使っていた安物のロードバイクに荷物を積んで、何度か練習をして出発する日をうかがいました。4月中旬には、いや4月末には、いや5月の初めに…。
結局家を出たのは5月6日の夜でした。
誰にも見られないように神戸までひっそりと。とりあえず四国を回ってこよう。
こうして私の旅は始まりました。
それがまさか日本一周になるなんて(笑)
人生わからないものですね。
なかなか人に語れない自分のストーリーをつらつらと書いてみました。いつかいつかと思っているタイミングはなかなかやってこないものですね。誤解のないように言っておくと、教員のお仕事はとてもやりがいがあって自分は好きです。ただ自分の中のしこりをとっておきたいなあと…。
最後まで読んでくださり本当にありがとうございました。
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